2015年1月31日土曜日

2015.1/25  神の恵みによって育つ

出エジプト記2章
 2:1 レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。 2:2 彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。 2:3 しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。
 2:4 その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、 2:5 そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。 2:6 開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。
 2:7 そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」 2:8 「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。 2:9 王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、
 2:10 その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」

ルカによる福音書2章
 2:39 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。 2:40 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

「親子は、主の律法どおりにすべてをすませると、ガリラヤの自分たちの町ナザレにもどった。幼子はたくましく成長し、知恵にみち、神の好意がこの子に向けられていた。」
(本田哲郎訳 ルカ2:39-40)
 ユダヤの家庭に子どもが生まれると、その喜びは大きく、村中にうれしい出来事を知らせ、親戚はもちろん友人や隣人を招待してあらん限りのごちそうをするそうです。
 「子どもは神からたまわった嗣業(分け前)であり、胎の実は報いの賜物」と詩127篇が告げているとおり、天の恵み、神からの祝福のしるしです。
 とりわけ初産で男児が誕生すると「ベコル」と呼び「父の勢いまた命の力の初穂(創49:3)」として未来の家長と定められ、相続権と同時に一族の繁栄に責任を負うのです。
 イエスも8日目に割礼を受けてユダヤ人の「印」を付けられ、40日目に初子として神に献げられました。
 一方、現代は「子どもを作る作らない」「いるいらない」とか平気で言い、生殖医療の進歩で「デザイナーズ・ベイビー」すら望まれているのです。悩ましい時代です。
 イエスの父ヨセフは「正しい人(マタイ1:19)」と伝えられています。伝統的な価値観を持つ人だと思いますが、律法主義者ではなかったでしょう。
 「この親にしてこの子あり」と言いますが、生活の背骨として律法には厳しく、同時に「何が神の意思で、何が善であるかを見分ける知恵」つまり、柔軟さも幼い頃から示して育てたのでしょう。
 イエスは成長し、会堂(シナゴーグ)で律法を学び、両親からは信仰生活を学びました。それは暗記と実行でした。
 神の意思をあらわす律法を徹底的に暗記し、成長に応じて実行させられたのです。それを繰り返すことで、苦労し悩みながらも主の律法の深みを味わい、本当の父は神であると確信していったのです。
 それはちょうど主イエスが「わたしを主よ主よと呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか(ルカ6:46)」「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される(ルカ7:35)」と教えられているようにです。
 どのような人になるかは、生まれながらの気質や環境の影響が大きいと考えられますが、何より「愛されていること、その存在に関心と好意を持たれていること」が不可欠で「神から授かり、託された子」として大切にすることを神は期待されています。


 今朝から、数年ぶりで子どもの礼拝を始めます。どうぞ、主の恵みに包まれて子どもたちが成長していけるようにお祈り下さい。最も良いものをおささげください。

2015.1/18  祝福を手渡す遺言(松本教会との交換講壇)

2015年1月14日水曜日

2015.1/11 祝福を手渡す人生

旧約聖書 創世記48章
48:15 そして、ヨセフを祝福して言った。「わたしの先祖アブラハムとイサクが/その御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで/導かれた牧者なる神よ。 48:16 わたしをあらゆる苦しみから/贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に/祝福をお与えください。どうか、わたしの名と/わたしの先祖アブラハム、イサクの名が/彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に/数多く増え続けますように。」
 48:17 ヨセフは、父が右手をエフライムの頭の上に置いているのを見て、不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。 48:18 ヨセフは父に言った。「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください。」
 48:19 ところが、父はそれを拒んで言った。「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる。」 48:20 その日、父は彼らを祝福して言った。「あなたによって/イスラエルは人を祝福して言うであろう。『どうか、神があなたを/エフライムとマナセのように/してくださるように。』」彼はこのように、エフライムをマナセの上に立てたのである。
 48:21 イスラエルはヨセフに言った。「間もなく、わたしは死ぬ。だが、神がお前たちと共にいてくださり、きっとお前たちを先祖の国に導き帰らせてくださる。 48:22 わたしは、お前に兄弟たちよりも多く、わたしが剣と弓をもってアモリ人の手から取った一つの分け前(シェケム)を与えることにする。」

新約聖書 ルカによる福音書2章
2:36 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、 2:37 夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、 2:38 そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。


「アンナという女預言者がいた。非常に歳をとっていて、若いとき嫁いでから7年間、夫とともに暮らしたが、夫に死に別れ、84歳になっていた。」(ルカ2:36-37)
 乳児イエスがシメオンに抱かれて祝福されたとき、すぐそばにアンナもいた。イエスに近づくと(その瞳は喜びに輝き、力強い)感謝の祈りがくちびるからほとばし出た。すぐさま祈りの仲間たちに、いま見た赤子のこと、示された救いについて語った。
 イエス誕生のできごとは高齢者の信仰を受け皿として語られている。歳をとり弱ると、かえって若い頃には見えなかった、感じなかった何かが分かるのだろうか。
 先日、「止揚」の「終刊号」が送られてきた。知恵に重い障害がある人たちが暮らす止揚学園と学園を支える人たちを結ぶ小さな雑誌だ。
 代表の福井達雨さんはもう82歳になられた。私は若い頃に「アホかて生きているんや」を読んで、生きている価値を問われるような強いショックを受けた。
 福井さんは42年間を振り返りながら「老人になる喜び」について書いておられる。「もっと深みを持った老人としての歩みをせんとあかんのやないかなあ」 齢をとる寂しさの原因を、あれやこれやと探りながら、更に自分の心に問い、
 「齢をとってくると包むものが弱くなってきて、その包みを破って心の奥深くに存在していた寂しさが一気に吹き出してくるのだと思います」「寂しさは喜びや楽しさ、悲しみや苦しみよりも、もっと深淵な心の動き、心の本質なのです」「その寂しさや弱さは闇を与えるものではなく、若いときには持てない新しい人生を目の前に出現させ、齢をとって持つ不安や悲しみを解き放って生きがいを持たせてくれるものなのです」「この頃、希望を捨てず一歩一歩と前に進む勇気を創り出してくれるものは信仰以外にあらへん。僕はイエスさまに信仰を与えられて、ほんまに良かったなあと思い、感謝することが多くなってきました。この心は、若い、強い時は余り持てなかったものです」「82歳になり、寂しさに心を揺さぶられるようになり、信仰が生き返ってきました」「イエスさまが与えて下さった寂しさ(それがイエスさまの愛なんや)が、これからの未来の輝く光となっていく、真の寂しさは、ほんまに素敵なものやなあーと、しみじみと実感し、未来に心を躍らせている私です」と。
 イスラエル(ヤコブ)は、波瀾万丈の人生を振り返り、ヨセフと孫に祝福を手渡していく。それは若い時に追求した知恵と力で「勝ち取っていく祝福」ではなく、最後まで自分の羊飼でいて下さった、神に対する深い信頼と感謝で悟った「祝福」だった。

2015年1月5日月曜日

2015.1/4 神が用意して下さる人生

旧約聖書 創世記22章
22:11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、 22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
 22:13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
 22:14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。 22:15 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。 22:16 御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、 22:17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。 22:18 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

旧約聖書 レビ記12章
 12:1 主はモーセに仰せになった。 12:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。 12:3 八日目にはその子の包皮に割礼を施す。 12:4 産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない。
 12:6 男児もしくは女児を出産した産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す。

旧約聖書 出エジプト記13章
 13:1 主はモーセに仰せになった。 13:2 「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。」

新約聖書 ルカによる福音書2章
2:21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
 2:22 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。 2:23 それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。 2:24 また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
 2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。 2:26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。 2:27 シメオンが"霊"に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。 2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
 2:29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。 2:30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 2:31 これは万民のために整えてくださった救いで、 2:32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」
 2:33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。 2:34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 2:35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」


「さて、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は解放を志す敬虔な人で、イスラエルがふるい立つ時を待ち望んでいた。そして主であるキリストに会うまでは死なない、と聖霊の示しを受けていた」
(本田哲郎訳 ルカ2:25~ヌンク・ディミットゥス)

 ルカの記録によれば、イエスが生粋のユダヤ人で、しかも貧しい庶民の長男であったこと(レビ記12章、出エジプト記13章)が、生後40日目に受けられた赤児奉献のようすで示されている。
 ここに証人として二人の高齢者がいた。84歳の女預言者アンナ、シメオンもかなりの歳だろうから、若い頃にハスモン王家の血なまぐさい相続争いを聞き、内紛に乗じて都になだれ込んだポンペイウス将軍の軍旗を情けない思いで見たに違いない。
 更に悪いことに、エドム人のヘロデが漁夫の利で王座につき、ユダヤをほしいままにするさまに「神よ、なぜなのですか」と絶望したかも知れない。
 だが、どの愛国運動もエルサレムに平和をもたらすことはなかった。そして、ずいぶんと時が流れた。

 「置かれた場所で咲きなさい」の渡辺和子さん(修道女・ノートルダム清心学園理事長)が新春対談でこんな風(一部略)に語っておられた。
 「膠原病の治療では薬の副作用で骨粗しょう症になり身長が(16センチも)縮んでしまいました。でも発想を転換することも習いましてね。『なぜ』ではなくて『何のために』か。
 最初、なぜ私が、なぜ、なぜと神様に不平を・・でも病気を経験することによって、ある学生が自殺未遂をした時に『私もうつ病になったことがある』と寄り添ってあげることができた。
 あの時苦しんだのは、そのことのためだったと思えたのです。・・そういうことを『人生の穴』と表現しています。
 病気やもめ事、失敗など様々な理由で、私たち一人一人の生活や心の中に『人生の穴』がぽっかり開くことがあります。すきま風が吹いてきます。
 だけれども、穴が開くまでは見えなかったものが、穴が開いたがゆえに、その穴から見えるということがある。思ってもみなかったことが尊いと思えるようになった、そう感じることがある」と。

 シメオンはいつものように境内にきて座った。その時「聖霊に導かれて」とルカは証言している。
 いつの日か、祖国と同胞に確かな光が昇る、そんな希望が示されていたらしい。だが世間が期待する形ではない。
 では、どんな形で? マリアから赤児(無力の徴)を託されて抱いたとき突然分かった。
 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりに、この僕を安らかに去らせて下さいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。」
 シメオンの人生は「何のために?」
 キリストを待ち、キリストに出会い、万民に証しするためにあった。私たちも「本当に幸いな人生」を同じように締めくくれる。