2016年5月16日月曜日

2016.5.15 私たちの上に聖霊が降るとき

◆ (レビ記19:1-4、使徒言行録1:6-11)
 聖霊があなたたちに臨む時、あなた達は力を帯びて、エルサレムでユダヤとサマリアの全域で、更には地の果てまで私を証しする者となる(使1:7-8)
 今日はペンテコステの祝いの日です。祈る群れの一人一人に聖霊が注がれ聖霊は弟子を世界に押し出しました。そして時空を越えて私たちに福音が伝えられました。
 復活のイエスは40日の間、色々な場で弟子に現れて神の国について話されましたが、食事の席で「エルサレムを離れず、前に私から聞いた父の約束されたものを待ちなさい」と命じました。まもなく彼らが聖霊によるバプテスマを受けるからです。
 弟子たちは「王国の再建」はいつですかを尋ねます。イエスは「それがいつなのか、あなた方が知るべきでないし、知ることも出来ない」と答えます。弟子たちはダビデ王国の再建を思いましたが、イエスが打ち立てようとされた王国は、それとは性質が真逆なもので、ペンテコステを経験するまで理解できないものでした。
 主イエスの王国は「教会:エクレシア・ディアコニア」です。私たちが「我は教会を信ず」と告白する、聖霊の力によって立つ王国です。エクレシアは神に選び出された人々による礼拝共同体で、ディアコニアは信じる者が助け合う生活共同体です。教会は聖霊によって集められ、互いに愛し合い御国の到来を待ち望みながら、一人また一人と加えられていく神の家族です。
 さて「父がご自分の権威で定めた時や時期はあなた方の知るところではない」という教えは感謝なことです。「おまえの人生は何年のここまで」と知らされたら安心して暮らせません。
 必ず人生の終わりの時は来ます。それは厳然たる事実です。しかし、その時を知らないからこそ、許されている間に精一杯生きていけるのではないでしょうか。
 さらに「あなた方に聖霊が降ると、あなた方は力を受け・・・イエスの証人となる」という祝福の約束を信じるなら、人生の全てが聖霊の力の下にありイエスが共にいて下さるのでどんなことでもできる、と力がわきます。
 パウロは労苦を共にしてくれたフィリピの信者に「私は自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。私を強めて下さる方のお陰で、私には全てが可能なのです(4:11-)」と言い切ります。
 神に選ばれ「聖なる者になりなさい」と。聖霊によって私たちは聖なる器として用いられ、私たちによって教会は建てられるのです。喜んでその招きに応えましょう。

2016年5月8日日曜日

2016.5.8 神の選びを無にしない

◆ (エレミヤ20:10-13、使徒言行録13:44-52)
そこでパウロとバルナバははっきりとこう宣言した。「神の言葉はまずあなた方に語られなければならなかったのです。しかし、あなた方はそれを拒んで、自分自身を永遠の命に相応しくない者と決めたのです。(新改訳:使13:44-52)
 善かれと思ってしたことや口から出た言葉で人間関係が壊れることがあり、信じて行動し主張した結果、共同体が分裂し深刻な対立にさえ発展することさえあります。一方ではっきりとした態度をとらない事なかれ主義の人もいます。何が正しい態度か難しい課題です。
 パウロとバルナバは聖霊に導かれ、現在のトルコ中央部にあったアンティオキアのユダヤ会堂で聖書に基づいて力強くイエスの福音と罪の赦しを語りました。次の礼拝には町中の人が押しかける程になりました。ところが、そこに強硬な反対者が現れます。
 「群衆を見てひどくねたみ口汚く罵って」と町の人がパウロの説教に熱狂する有様をユダヤ人がねたんだというイメージにとれますが、そうではありません。
 「宗教的な熱意にかられ、パウロが言ったことに侮りを込めて反論した。本田訳」
 ユダヤ人は自分たちが信じる神が冒涜され、信仰の秩序が破壊されると受け取って猛反発しました。若い頃のサウロ(パウロ)がキリスト者を徹底的に否定したように。
 後に「聖霊によらなければ誰もイエスは主であると言えない(1コリント12:3)」と告白しましたが、パウロは聖霊によって説教し、ユダヤ人は伝統的な解釈によって反対したのです。
 皮肉なことに、キリスト教が公認され権力側につくと、他の宗教だけでなくユダヤ人を迫害するようになりました。
 パウロは大胆に宣言します。「神の言葉はあなた方に語られなければならなかった。しかし、あなた方はそれを拒否した。だから、神の言葉は(私たちによって)外国人に向けられる」感情的に反射的に出た言葉ではなく、これも聖霊による言葉でした。
 主イエスは「いざという時、あれこれ迷うな、その時は聖霊に委せれば言うべき言葉は自然に出てくる(意訳)」と励まされました。一方で主イエスから出た言葉は鋭い刃物でもあり「兄弟は兄弟を父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」と。人間的には断ち切れない悪習や硬直した考え、伝統や掟の縛りを一刀両断して、「そのうえで」聖霊が新しい秩序、出会いとして堅く結び付けてくれるのです。
 母の日、感謝を表し喜びを分かち合う日。信仰のバトンタッチを感謝して受け取る日でもあります。生まれる前から神に選ばれ、母なる教会に連なって生かされるため。

◆母の日 大好きなママに手作りの贈り物、遠方の老母に久しぶりで電話、床に伏す母親の見舞い、亡き母を偲んで花を供え、それぞれに感謝の思いをあらわします。
 米国マサチューセッツ州ウェブスターのメソジスト教会でアンナという人が母親の追悼会を催しました。礼拝堂をカーネーションで満たして母の愛に感謝したそうです。これを知った百貨店王ワナメーカーが5月第2日曜に店頭で盛大な「母の日記念会」を催しました。1908年のこと。1923年(T12)に日本で最初の母の日が祝われました。


2016年5月1日日曜日

2016.5.1 新しい命が拡がった

◆ (エレミヤ24:1-7、使徒言行録13:34-43)
 ダビデは同時代の人々のために、神の意向を実行に移したのち、眠りにつき 父祖たちの列に加えられて、体は腐敗しました。しかし神が立ち上がらせた この方は、腐敗を見ることはありませんでした。(本田訳:使徒13:36-37)
 ことわざに「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」とあります。虎の皮、人の死はこの世に何かを残します。諺はこの世を傍観者の目でとらえた知恵の言葉です。
 しかし聖書の言葉は全く反対です。ダビデは名家の息子でしたが跡継ぎや王になる可能性はありませんでした。ところが神はダビデを選び、いかにも勇壮な兄たちをよそに、預言者サムエルによって「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と言わせます。末息子が次期の王として油を注がれ(任職・即位)たのです。
 ダビデが選ばれた理由はただ一つ。神にまっすぐだったからです。彼は決して完璧ではなく、王になって恐ろしい罪さえ犯しました。また妻や息子の愛し方を知らず悲劇を招きました。けれども、最悪の時にこそ神を求め一切を神に告白して、その身を神の手に(意思に)委ねた人でした。そして死んで王墓に葬られ、朽ち果てました。
 信仰の手本のような人も神の前に罪人であり罪により「死んで朽ち果てた」のです。ダビデが残したものは少なくなく、偉大ですが、すべて過去のものです。
  一方、イエスは預言者の一人と言われましたが、神の独り子として受け入れられず、十字架で(木に架けられ呪われ)殺されました。誰の目にも神に見捨てられたと映りました。
 けれども、ここに神の深い愛と知恵があります。私たちは本当に大切な人を傷つけ、大切なものを破壊し、取り返しがつかなくなってはじめて、大切さ、尊さを知るという「手遅れを繰り返してしまう」存在です。それが罪の結果です。
 失敗と悔いのどん底に至って、人は捨てられるか、それとも引き上げられるのか。
 福音は「低みに立って、やり直しなさい」という招きです。すべての人に向けられています。低みを拒否する人には遠い声になります。しかし、イエスの声に引き寄せられ、赦されたと宣言され、信じて生きようと決心するする人には、朽ち果てない(腐敗しない)永遠の命の約束です。
 約束は信じる人にだけ意味を持つものです。「信じない人は既に裁かれている(ヨハネ3:18)」信じない人と信じられない人は違います。信じない人は警告されます。信じられない人は「留まりなさい」と忍耐と愛をもって諭されています。それに気づくときがチャンスです。