2015年2月24日火曜日

2015.2/22 健康な教会と心身

旧約聖書 出エジプト記18章
 18:13 翌日になって、モーセは座に着いて民を裁いたが、民は朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいた。 18:14 モーセのしゅうとは、彼が民のために行っているすべてのことを見て、「あなたが民のためにしているこのやり方はどうしたことか。なぜ、あなた一人だけが座に着いて、民は朝から晩まであなたの裁きを待って並んでいるのか」と尋ねた。
 18:15 モーセはしゅうとに、「民は、神に問うためにわたしのところに来るのです。 18:16 彼らの間に何か事件が起こると、わたしのところに来ますので、わたしはそれぞれの間を裁き、また、神の掟と指示とを知らせるのです」と答えた。
 18:17 モーセのしゅうとは言った。「あなたのやり方は良くない。 18:18 あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。 18:19 わたしの言うことを聞きなさい。助言をしよう。神があなたと共におられるように。あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、 18:20 彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい。 18:21 あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を/選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。 18:22 平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があったときだけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい。 18:23 もし、あなたがこのやり方を実行し、神があなたに命令を与えてくださるならば、あなたは任に堪えることができ、この民も皆、安心して自分の所へ帰ることができよう。」
 18:24 モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、その勧めのとおりにし、 18:25 全イスラエルの中から有能な人々を選び、彼らを民の長、すなわち、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長とした。
 18:26 こうして、平素は彼らが民を裁いた。難しい事件はモーセのもとに持って来たが、小さい事件はすべて、彼ら自身が裁いた。 18:27 しゅうとはモーセに送られて、自分の国に帰って行った。

新約聖書 使徒言行録6章
 6:1 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。
 6:2 そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。 6:3 それで、兄弟たち、あなたがたの中から、"霊"と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。 6:4 わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
 6:5 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、 6:6 使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
 6:7 こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。



12人は弟子の集団を呼び集めて言った。「神の告げるできごとをなおざりにして、   自分たちの食卓に奉仕するというのは好ましいことではありません」(本田哲郎訳)
 主イエスはガリラヤのナザレという村の大工の長男で、母親のそばでは家事を、父親に仕事場や呼ばれた先で農具の修理や土木仕事を見て大きくなったに違いありません。
 主の説教の中にパン焼きや掃除のたとえ、種まきや家畜のたとえ、家造りのたとえがたくさん出てきます。幼い時からシナゴーグで学んだ神の言葉と両親の教えが、生活の知恵として血肉となっていたからです。
 主イエスがそうであったように、初期の教会は家庭的で、数千人にふくれあがった信徒の生活の世話にも12使徒が中心的に関わっていました。が、それも限界でした。
 特に、言葉や出身の違う人々の間で生じたトラブルは深刻で、ペトロたちはしばしば呼び出されて仲裁にあたらねばならず、本来の説教や伝道のわざが「後回しに」ならざるを得ない事態でした。こういうことは多くの教会で経験してきたことです。
 この頃、ある若い牧師から「先生は優しいから、色々と出かけて行って忙しそうですが、大丈夫ですか?」とまじめに言われてドキンとしました。何とかしなければ。健康も教会のことも心配してくれているのです。ありがたい同労者です。
 私たちの教会は20名にも満たない小さな群れですが、必要とされる奉仕のわざは多様で沢山あります。また、地域に根ざして伝道するという願いのために奮闘しています。けれども、創立25周年を間近に、まさに原点に立ち帰ることを示されます。
 まず「祈りと御言葉の奉仕に専念する」とはどういうことか。そもそも、現実的な苦情に対応し食卓の奉仕のために忙しくしている姿があります。その現実に気がついた、放っておけないと判断したことです。
 「神の言葉を後回しにして、食事の世話をする」のは適切ではない、と。そこで12人は提案します。「あなた方の中から霊と知恵に満ちた評判の良い人を7人選びなさい」そして「信仰と聖霊に満ちている7人」を選出しました。それから12使徒は「祈って」7人の上に「手を置き」ました。
 こうして当面の問題が解決しただけでなく、祈りの奉仕と御言葉の奉仕に使徒が専念した結果、信徒の数は増え、かつての反対者さえ忠実な信徒となり加わったのです。
 今日の御言葉は、具体的な主の指図だけに恐ろしく「出来るだろうか」と尻込みしそうです。しかし忠実な人が祝福され、健康な心身になる確かな約束なのです。

2015.2.15 その言葉は、すべて王につたえねばならない 大澤秀夫牧師

2015.2/11 被造物の和解 思想・信教の自由を守る日 南部正人伝道師

旧約聖書 イザヤ書32章
32:15 ついに、我々の上に/霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり/園は森と見なされる。32:16 そのとき、荒れ野に公平が宿り/園に正義が住まう。 32:17 正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。 32:18 わが民は平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場所に住まう。
 32:19 しかし、森には雹が降る。町は大いに辱められる。 32:20 すべての水のほとりに種を蒔き/牛やろばを自由に放つあなたたちは/なんと幸いなことか。

新約聖書 ローマ書8章
 8:20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 8:21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。 8:22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。


2月11日の「建国記念の日」に、
なぜ毎年のように「思想と信仰の自由を守る」集会をするのか。
今年は特に「原発問題」を考えるのか、松本教会の南部正人先生が開会礼拝で、聖書のことばによって、分かりやすくて心にひびく言葉で語って下さいました。
 元々は神武天皇の即位と支配を祝う「紀元節」という祭日で、敗戦で廃止されていたものを、1967年に政府は新しい祝日として制定しました。天皇を神とあがめ、国の神道に服従しない宗教や思想が弾圧された歴史があったので、制定に対しては幅広い反対運動が起こり、日本基督教団も「信教の自由を守る日」を定めて抵抗しました。
 では、思想・信教の自由と「原発=原子力発電」がどうして関係するのか。原発も原爆も材料はウランです。おもに米国やオーストラリアで採掘され、先住民の土地に埋っています。彼らが代々暮らしてきた土地は奪われ、労働者として動員されて被爆し、放射性ガスは彼らの故郷や聖地をずっと汚染しています。このようなことは過去も現在も、すべての核燃料サイクルにおいて起きています。福島も青森も同様です。
 この被爆問題について、人々の言論や思想の自由は奪われています。例えば福島で地元の食材を使った給食が心配なお母さんが、子どもに弁当を持たせたことで親子でいじめに遭ったり、放射能を恐れて各地に疎開した人たちが、過剰反応だと非難されるケースが多くあります。放射能汚染や被爆の実態を発表したり調査し告発しようとしても大手のマスコミは取り上げません。このように知る権利を奪われた中で、人々はどのように生き行動するべきかという、思想や良心の自由が奪われています。
 さて、聖書はこの問題にどんなヒントを与えてくれるか。創世記では、この世界は神さまによって創造されたとあり、私たちはそう理解しています。それは少なくともこの世界は人間によって造られたものではなく、人間はその管理を委ねられているのであって勝手に破壊してはいけないということ。地球誕生から45億年。自然界のウランの93.3㌫の半減期(半分になる時間)は45億年。核は地中深くに収まって安定し、35億年という悠久の時間をかけて多様な生態系を形成し「神はお造りになった全てのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった(創1:31)」と。核燃料サイクルはその安定を破壊して自然界の生命を脅かしているだけでなく、制御不能なのです。
 高木仁三郎さんが須坂教会でこう言われた。「核とは本来、天上の光であり神の領域に属するものなので、そこに人間は手を出してはいけない」と。
(以上は島津による一部まとめ、
 以下は説教のまま再録)

2015年2月13日金曜日

2015.2/8 歴史を導く神のことば

旧約聖書 出エジプト記2章
 2:11 モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。 2:12 モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。
 2:13 翌日、また出て行くと、今度はヘブライ人どうしが二人でけんかをしていた。モーセが、「どうして自分の仲間を殴るのか」と悪い方をたしなめると、 2:14 「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」と言い返したので、モーセは恐れ、さてはあの事が知れたのかと思った。
 2:15 ファラオはこの事を聞き、モーセを殺そうと尋ね求めたが、モーセはファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりつき、とある井戸の傍らに腰を下ろした。

新約聖書 使徒言行録5章
 5:33 これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。
 5:34 ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、 5:35 それから、議員たちにこう言った。
 「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。 5:36 以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。 5:37 その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。
 5:38 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、 5:39 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」
 一同はこの意見に従い、 5:40 使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。
 5:41 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、 5:42 毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。


 「ああいう思い、ああいう生き方が人間から出たものなら自滅するだろうし、もし神から出ているものであれば、彼らを滅ぼすことはできません。まかり間違っても、神への反逆者になっていたということに、ならないで下さい。」 (本田哲郎訳)

 モーセは若い頃、労働現場で同胞のユダヤ人がエジプト人からひどい扱いを受けているのを知り、同胞愛と正義感からエジプト人を殴り殺して死体を埋めてします。
 ところが皮肉なことに、同胞に目撃されていたのです。モーセは処罰を逃れるため遠いミデアンに旅立ちます。
 この物語から二つの真理を見いだします。一つは、感情的な正義はひどい罪を犯すということ。にもかかわらず、神はモーセをミデアンに逃し、そこで召命の時までさまざまな訓練をしたということです。

 「神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできない」という真理は、立場を代えれば「神が見方であるなら、誰が私たちに敵対できようか(ローマ8:31)パウロの言葉」という勝利の保証でもあります。
 ガマリエルは「ファリサイ派の律法教師」です。当時ファリサイ派は二つの学派に分かれていました。その代表はラビ・シャンマイとラビ・ヒレルです。シャンマイ派はとにかく律法に厳格、融通が利かないゴチゴチ頭。ヒレル派は非常に寛大で建前ではなく律法の精神を日常に生かそうとしました。
 ガマリエルはヒレルの愛弟子です。そのガマリエルの愛弟子が、後のパウロです。若きパウロはシャンマイ派であるかのようなガチガチの律法主義者だったのですから、人生は分からないものです。
 ガマリエルは「使徒たち」を退室させて事柄を慎重に扱うよう勧告し、その頃起こった革命運動やテロリストたちを例に挙げ、今彼らはどうなったか問います。そして「あの者たちから手を引きなさい。放っておくがよい」と方法を示します。
 彼の真意は「あれほど禁止し、捕縛して牢に入れてもなお、口をふさぐことがない」熱心さはどこから来ているのか。「もし人間からなら」やがて廃れる。しかし「神から出たものなら」どうなるか。元の表現では「神から出たものなのだから」を意味しています。
 歴史とは、人間の思いや行動、栄枯盛衰、神を求め神に背いてきた足跡です。
 神がいるならどうしてこうなんだ、と言いたい人の気持ちも分かります。けれども、心を静めて現実を観察するならば、赦しと恵みに囲まれていることが分かるはずです。
 神の赦しと祝福の言葉はすぐ隣、目の前にあり、神の愛は誰にでも注がれているのです。

2015年2月7日土曜日

2015.2/ 2 救いの原点

旧約聖書 出エジプト記1章
1:15 エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。 1:16 「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」 1:17 助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。
 1:18 エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただした。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」 1:19 助産婦はファラオに答えた。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」
 1:20 神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった。 1:21 助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。
 1:22 ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」

新約聖書 使徒言行録5章
5:27 彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。 5:28 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」
 5:29 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。 5:30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。 5:31 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。 5:32 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」
 5:33 これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。

「人間によりも神に従順でなければなりません。あなたがたが手を下して木にはりつけにしたイエスを、わたしたちの父祖の神は、立ち上がらせてくださいました。」(本田哲郎訳)
 カインがアベルを殴り殺したことが創世記4章にあります。神がカインに「アベルはどこか」と尋ねると、カインは「知りません、私は弟の番人でしょうか」と皮肉っぽく話をそらしてしまいます。
 英語でresponsible for は応答することですが、カインは神の問いに応えようとせず、抑えきれない感情で行動しました。
 もし、カインが「罪が戸口で待ち伏せしてお前を求める。お前はそれを支配せねばならない」と、なぜ言われるのか考える余裕があったなら、アベルへ抱いている嫉妬と殺意の心を自覚して、気持ちをコントロールできたかも知れません。神の言葉に注意を払わなかった結果、カインは人殺しという大きな罪を犯してしまったのです。
 一方、神を畏れない人は人殺しも平気です。モーセが生まれる前、エジプト王は「ユダヤ人に男児が生まれればナイル川に捨て、女児なら生かしておけ」と命じます。世間が王を怖れて従う中で、神を畏れ、王の厳命に反して命を救う人がいたのです。
 何百万人というユダヤ人をアウシュヴィッツ絶滅収容所へ送り込んだアイヒマンという将校が大戦後にイスラエルの裁判所で尋問された時「わたしは上官の命令に従った一官僚に過ぎず、ユダヤ人の死に責任はない」と主張しました。軍人や政治家が裁かれる時は同じような責任逃れをします。しかし神は「血の責任を必ず問う(創9:5)」と言われます。血を流した責任は誰が負わねばなりません。
 さて、ペトロたちは早朝からイエス復活の説教をしていました。前の日「その説教は二度とするな」と投獄されたのですが、夜中に天使が牢から助け出して「この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と命じたからでした。大祭司たちの「説教禁止」と天使の「命の言葉を残らず告げよ」のどちらに従うかは、命がけの決断であり、神への信頼しだいです。
 大祭司たちはイエスを殺した「血の責任」が責められていると受け取りましたが、むしろペトロは、イエスを裏切った臆病者だったが、復活されたイエスに赦されて立ち直っただけでなく、天使にも助けられ、証言しないではいられなかったのです。素直になって悔い改め(方向転換して)イエスに赦しを乞い、救い主と信じて命を受けなさい、と議会の重鎮たちを招いているかのようです。
 「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、世を救うため。御子を信じる人は裁かれない。信じない人は既に裁かれている」とヨハネ3章に記されている通りです。
 復活のイエスは、救い主として、聖霊として私たちに臨み、イエスを信じて新しい命に生きるられるように助けて下さいます。日々新しく信仰を始めましょう。