2020年4月27日月曜日

アバターで礼拝しました。19日 26日











19日26日の礼拝の様子

もうしばらく
私たちのアバターに
集まってもらいましょう。


2020年4月26日日曜日

2020.4.26 一人のために主が来られた

復活節第3主日を迎えました。
今朝は12弟子の一人、トマスに注目して御言葉を味わいましょう。
当時、ユダヤ人もアラム語をしゃべっていました。イエスの弟子に「トマ」という男がいました。アラム語で双子という意味です。ギリシャ人の友人からはディドモと呼ばれ、弟子仲間はトマスと呼びました。中近東では2つも3つも名前を持ち、使い分けていたのです。
 イースターの夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れ戸を閉めきって集まっていましたが、イエスが来て真ん中に立ち「平安あれ」と挨拶して手と脇腹を見せました。再び「平安あれ」とイエスは息を吹きかけました。これは、心が死んだも同然の弟子たちを再び立ち上がらせ、罪の赦しの福音を伝える使命を与える命令となりました。
 その日その時、トマスはそこにいませんでした。どうしていなかったのか、何の説明もありません。仲間が「俺たちはイエスを見たぞ」と嬉しそうに言うと、トマスは打ち消して「俺は絶対に信じない」と反発しました。仲間でありながら一番大切なことが共有できないほど孤独なことはありません。
 イエスの言葉が本当であることを何度も弟子たちは経験しました。しかし、経験したことに留まっていてはいけないことを示されます。
 弟子たちは3年近くイエスの言葉とわざを見てきました。そして、「あなたこそ生ける神の子キリストです」という告白さえしたのです。しかし、十字架は彼らの信仰を吹き飛ばしました。特にトマスはイエスに大きな期待をしたようで、先生が殺されてしまい、完全に目標を見失いました。
 生きる目標を失った人に必要なのは、薬でもカウンセリングでも楽しみでもありません。生きた言葉です。それは「神の息」です。
 さて、次の日曜日も部屋の戸はしっかり閉められていました。恐れが残っていたからです。今度はトマスも一緒にいました。そこへイエスが入ってきて真ん中に立ち「平安あれ」と祝福しました。
 イエスはトマスに向かって言います。「お前の指をここにあて、私の手をしっかり見なさい。お前の手を伸ばして私の脇腹に入れなさい。信じないままでなく、信じるようになりなさい」トマスは知りました。「わたしの主、わたしの神」トマスの信仰が生まれた瞬間です。
 前の週、仲間はイエスから息を吹きかけられていました。イエスはトマスのために、再び来られました。
 トマスは仲間に言ったように、イエスの傷跡に自分の指や手を入れてみたでしょうか。
 真理は突然、復活のイエスがこられて明らかになりました。イエスは一人の友を忘れられてはいなかったのです。悲しみと絶望に囚われていたトマスをイエスはご存じでした。
 一人のためにイエスはどこにでも現れます。一人のために尊い宝は使い尽くされます。イエスの友情と愛によって人は復活の真理の前に立てるのです。イエスを信じるを英語にすると I believe in Jesus です。つまり、イエスの中に入っていく、裏返すと信じたいが信じられない私が入ってくるのをイエスは拒まず歓迎されるという表現です。
 日本語で「誰々の息がかかった人」というの言葉がありますが、その日トマスは、イエスの息がかかった人、神の力に押し出される人に生まれ変わったのでした。
 人間世界は今、見えない敵に包まれて、これまでの社会の仕組みが危機にさらされています。
 新型コロナウィルスの猛威は収束せず、世界で300万人が感染し20万人が亡くなっています。その上、どこで誰から感染し、誰に感染させるか分からない程に、ウィルスは身近に迫っています。
 先週から礼拝堂に集まれないけれども、いろいろな手段で礼拝を守ろうとしてきました。今までのやり方ができない特別な時です。
 一方で危険と過労の中で医療活動を必死に続け、犠牲者も出ていることも知られています。それに比べて、礼拝は命の危険を冒してまですることだろうかという疑いが起こるのも分かります。集まるのを避けることが感染を拡げない手段だという科学的理由からです。
 しかし礼拝はいつの時代も危機の中で守られてきました。それは信仰者が互いに励ましあうだけでなく、現実を支配されている神の前にひざまずき、謙虚になって必死に助けを求め、一人一人が神に立ち返って生き直すようにとの神の招きであり、信仰による神への応答です。
 ゆとりのある人が心地よい時としてするのではありません。私たちが今守られているように、人々の魂の平安を祈り、社会のリーダーの働きのために祈り、人々が思いつきもしないところに希望があることを証しすること。それが教会の存在理由であり、神から命じられた特別な働きなのです。
 私たちは社会の一員として精一杯働き、皆と同じように協調します。しかし、一人一人が特別な存在です。安息日に主を礼拝し、私の神、私の主と呼びかけることができる幸いを生きていきましょう。

祈ります。
私たちの神、私の神である主イエスキリストに感謝します。養われ守られてきたことを。そして、これからもあなたが世界を愛し続けてくださることを。人間世界はぐらついていますが、古いものが過ぎ去り、新しい世界が開かれていることを信じて。主の名によってアーメン

2020年4月20日月曜日

2020.4.19 主日礼拝 「目には見えない真理の力」

 今朝、示されたのはダニエル書6章とヨハネ福音書20章の後半です。
 ダニエル書にはユダヤ人がバビロンに囚われた70年間、偶像礼拝の環境で、ユダヤ人の神への礼拝が禁じられていた時代の姿が書かれています。後の時代に真剣なユダヤ教徒やクリスチャンが弾圧されていたとき、励ましと希望を指し示した書物です。
 ダニエルは2度も「礼拝を密かに行っている」と密告されて死刑を宣告されます。
 1度目は激しく燃える炉に投げ込まれました。2度目は腹を空かせたライオンの洞窟に放り込まれました。
 けれども何の被害もありませんでした。こんなことは信じられるでしょうか。しかし歴史の中で、神を信じる人々は神の守りを信じて、苦難に耐え礼拝を守りました。信仰があれば生活が守られ命が助かるとは限りません。逆に信仰故に非業の死を遂げた人は沢山いました。しかし、彼らを強くしたのは「たとえ死ぬことになっても、神さまは正義を貫かれる」という信頼、絶望の中の希望だったのです。
 イエスが復活された日曜日の夕方、弟子たちは家の戸の鍵をかけていたと書いてあります。ユダヤ当局の探索は当然、自分たちにも及んでいるという恐怖心からです。
 金曜日の未明に彼らは皆、イエスを園に残して逃げました。ペトロは大祭司の庭に忍び込んだものの、イエスの仲間だと追求されると、主を3度も否定し、イスカリオテのユダは裏切りを悔やんで自殺してしまいます。ヨハネはイエスから母親マリアの世話を託されました。他の弟子たちがどうだったか分かりませんが、その心は皆同じだったと思います。イエスへの思いは絶ちがたく、だからこそ、あの部屋に集まってきたのです。
 ガリラヤ出身の弟子が知っているのはベタニアのラザロの家か、あの最後の晩餐の部屋しかありません。もし見つかったら一網打尽です。ですから仲間内で信頼していた人の部屋だったと推測します。
 新共同訳では家の戸の鍵、と書いてありますが、原文では「彼らのいた所の戸は閉められた」とあるだけです。新共同訳は恐怖を強調して「家の戸の鍵をかけた」となっています。
 さて、彼らはユダヤ人を恐れていました。戸を閉じていました。
いつの時代もいろいろな恐怖があります。今日の私たちも同じです。
 恐怖が支配する中で、男弟子たちはマグダラのマリアから「私は主を見ました」「主はこれから父のもとに昇っていく」と聞きました。しかも「イエスの父は自分たちの父、イエスの神は自分たちの神」と知らされていたのです。しかしマリアのメッセージよりも恐怖が勝っていたのです。そんなことをイエスは充分ご存じでした。
 だからこそ、マリアに託した言葉が真実であり、召命を見失いかけた弟子たちを、再び弟子として集めるためにおいでになったのです。
 原文は「イエスは来て真ん中に現れた」と。前触れなく部屋に入ってきて真ん中に立たれ、祝祷のようにされたと推測します。
「あなたがたに平安があるように」この言葉は、マグダラのマリアに「マリア」と親しく呼びかけ、他の福音書で女たちに「おはよう」と明るい声で挨拶した言葉です。
 けれども、イエスが捕らえられ逃げてしまった彼らが、遠くから十字架を眺めたにせよ、今はっきりと事実を教えるために、ご自分の傷跡、十字架に打ち付けたれた大きな釘の跡、兵士に刺された槍の跡を示されました。傷跡を見てようやく、弟子たちは主が復活されたことを確信できました。そして喜びが溢れてきました。
 彼らはイエスが選んだ人たちですが、プライドばかり強く、大事なときに腰砕けでした。けれども、イエスは彼らを一切とがめず、新しい、これまでとは決定的に違う段階の言葉を与えます。
 「平和があるように」これは受難の直前に「わたしは平和をあなた方に残し、わたしの平和を与える」「わたしはこれを世が与えるように与えるように与えるのではない」「事が起こった時に、あなた方が信じるように、今、話しておく」と言われた平和と同じ言葉です。
 弟子たちは、ようやく思い出しました。そう言ってイエスは彼らに息を吹きかけられました。創世記の人間誕生を思い出します。
「聖霊を受けよ」「誰の罪でもあなた方が赦せば、その罪は赦される」「誰の罪でも、あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る」
 弟子たちへの2度目の選び、新しい祝福と派遣の命令です。
 まだ聖霊を受けていなかった弟子たちは、この世を恐れ、イエスの本当の姿を知りませんでした。聖霊を受けない信仰は本当に弱く無知なのです。
 私たちは体験を重んじ、この世の常識を安定の土台にしています。それも大事です。けれども人間が本当に生きているとは、神に造られ神に知られ、神に愛され、自由に生きていることではないでしょうか。そして「真理はあなた方を自由にする」とイエスが言われた真理とは、まさにイエスご自身のことであり、これからはイエスから派遣される助け主、聖霊のことです。
 「聖霊を受けよ。そして世に出て行け」とイエスはご自分と共に生きる信仰者に宣言されます。聖霊は突破するエネルギー、力です。
 最後に、弟子たちは他人を裁く権威が与えられたのではありません。赦さなかったら、人の罪はそのまま残るという意味で言われたのです。つまり、この世の人々の罪が残らないように、世界中に出て行って罪の赦しの福音を伝えよ、との指令です。今や弟子たちは、私たちは、イエスの使者として赦しと自由を伝える証言者に任命されたのです。その人は困難に遭いますが、同時に祝福され、生きた存在になれます。
 聖霊を受けて、キリストの平安と喜びに目覚め、しっかりと掴んで、制約ある日々を生活していきましょう。主の平和と共に シャローム

4月19日、26日、5月3日までの礼拝は・・・・

 今日は復活節第2の主日ですが、いつものように会堂に集まっての公同礼拝ではありません。
私の人生で初めてのことです。
 コロナウィルスの拡散は収まらず、ついに全国に非常事態宣言がなされました。3月からいくつかの教会で礼拝を休止しているという情報もありました。また教会の近くでも感染者が確認された報道があり、考えられる限りの3密を避ける対応と除染手段を準備しました。その上で、礼拝、総会を短時間で終えるプログラムを用意しました。
 しかし土曜日になって事態が進行し、牧師一人で「集まらない礼拝」を決断しました。
  当日は集会室のPCからLINEで、スマホで、携帯でというアナログ的なつながりで4家族7人で週報に沿って礼拝をささげ、遠隔で執り成しの祈り、献金が出来ないので献身の祈りをしていただきました。
 これが良い判断かどうか、今は分かりません。けれども礼拝の形態はどうであれ、公同礼拝としての礼拝を続ける決意です。ですから、説教が聞ければ良いというのではなく、神さまに招かれた者として、離れていても心で一つになり、誠実に礼拝を献げたいと思います。

2020年4月13日月曜日

2020年4月12日 涙の夜から希望の朝へ

   涙の夜から希望の朝へ 
2020.4.12
 今日はイースターです。私たちはある意味で危険を冒して集っています。コロナウィルスが猛威を振るって世界中の教会が礼拝を中止し、分区でもそうした教会があるという時だからです。
 それでも集まりました。細心の注意を払って感染防止をし、イースターの喜び、希望の光を携えて家に帰れるように主に祈ります。
 イースターとはイエスが復活された出来事です。イエスは預言者が伝えたとおり、罪の結果である死に打ち勝った最初の人です。イエスが「御心ならば」と命を委ねて十字架で死なれ、神によって復活させられました。その驚き、喜び、従う決心を確認する記念日です。
 復活の出来事を目撃し、イエスと新しい関係に入った人々は、週の第1の日、日曜毎にイエスの復活を互いに確かめながら、時が来れば実現する自分たちの復活を信じて礼拝してきました。それで、教会では日曜日をイエスキリストの復活の日、主の日と呼ぶのです。
 今年はレントもイースターもヨハネ福音書を読んでいます。今朝は、マグダラのマリアの経験したイースターに目を向けましょう。
 この人はイエスを誰よりも恩ある人として愛していました。以前は7つの悪霊を追い出してもらった女、罪深い女と呼ばれていました。
7はすべてという意味もありますから、ありとあらゆる心身の病気、苦しみ、不幸貧しさのための、なりふり構わない生活ぶりだったからか、罪深い女と蔑まれたのだと思います。
 マグダラ村で評判の悪女を、初めてまともに相手にしてくれた人がイエスです。自らを呪ってきた心に生きる喜びや生きがいが生まれ、イエスのお世話をし、どこまでもついて行く人になったんだなーと、聖書を読んで想像することができます。
 その大恩人のイエスが磔にされ殺されてしまいました。女の力では先生を助けることは出来ません。しかしマグダラのマリアも女弟子たちも最後までイエスの十字架から離れず、遺体が岩穴の墓に納められるの見届け(ルカ23:55)ました。しかし安息日が始まったので遺体に触ることも出来ず、墓は大きな石で塞がれてしまいました。
 マリアは喪失と悲しみの夜を過ごし、安息日があけるのを待って、つまり日曜日の朝、空がしらみかける日の出前に墓に行きました。
 イエスを慕うマリアの思いを、ヨハネ福音書は簡潔に描きます。
 イエスの死体は金曜の夕暮れには防腐処理がされ、亜麻布に香料が入れられるのを女たちは見ていましたから、マグダラのマリアは何も持たずに墓に行きました。
 他の福音書では、遺体が大急ぎで亜麻布に包んだままだったからか、女たちが香料と香油を携えて墓に向かったと書いています。この違いは、ヨハネ福音書でマリアが手ぶらで墓に来た理由かも知れません。そう推測するとマリアの思いは、イエスの遺体にすがり、あるいは墓に入れなくても遺体のそばにいたかっただけかも知れません。
 ところが、思いがけない事が待っていました。墓をふさぐ大きな石は既に取り除かれ、覗いてみるとイエスの遺体が見当たりません。
動転したマリアは走って行ってペトロとヨハネに見たままを告げます。二人は走って墓に向かい、それぞれの仕方で確かめます。
 それからマリアは一人で墓に戻って来ました。振り出しです。
 マリアの目に涙が溢れてきました。泣きながらもう一度墓を覗くと、何と真っ白に輝く二人の天使が墓の中に座っていました。
 マリアはイエスの遺体が持ち出されたこと、遺体がどこにあるのか分からないと天使に訴えます。
 その時、人の気配を感じました。振り返ると誰かがマリアのそばに立っています。
 マリアがイエスと思うはずはありません。確かに先生は十字架の上で息絶えて墓に葬られたのです。その目で見たのです。
 その人は、なぜ泣いているか聞きました。マリアは墓の番人だと思って理由を言い、イエスの遺体を引き取りたいと申し出ます。
すると、その人は「マリア」と優しく呼びかけました。
 マリアの目は悲しみでふさがれて、イエスが目の前にいるのに分かりません。しかし、愛してやまないイエスの声、感触を耳はしっかり覚えていました。
 人間は死ぬ間際でも人の声を判別できると言います。マリアは思わず「ラボニー」と叫び、イエスの足に抱きました。
 この場面を山浦玄嗣さんは「ケセン語聖書」でこう描いています。
 イェシューさまはマリアにお声をかけなさった。「マリアム」
マリアは振り返って、ヘブライ語で金切り声をあげた。「ラボニー」
ラボニというのは「お師匠さま」という意味である。(そして嬉しさのあまり我を忘れ、もう何があっても金輪際放すものかとイェシューさまにシッカリとしがみついた)イェシューさまは(思わずよろめいて、高らかに笑いながら、マリアに言いなさった。)「ババババ、俺にそうギューギュー抱きづいでんのばやめろぜァ」(ケセン語で) 
 マリアがあまりにも必死なのでおどけてみせるイエスのユーモアがにじみ出るユニークな解釈です。
 さてすぐ後でイエスは真剣に、はっきりと言われました。
「わたしはまだ父のもとに昇っていない。だからわたしにすがりつくのは止めなさい。」と。ここの書き方は「決して触ってはいけない。という意味にもとれるし「もう止めなさい」とも解釈できるようです。
 目の前にいるのは以前のイエスではありません。イエスに助けられた頃のマリアなら、身も心もイエスの腕の中にいたかったでしょう。けれども今は復活されたイエスさまの体です。もはやこれまでの関係ではいけない。イエスはあえて突き放したのです。そして大事な使命をマリアに与えます。主のメッセージを仲間に伝えるのです。
「私の父、あなた方の父であり、私の神、あなた方の神であるところに私は昇っていく」
 マリアはこの言葉を心で繰り返しながら弟子たちの所へ行きました。そして「わたしは主を見ました」と証言したのです。
 すごい変化が起こりました。裁判で証言者の資格を認められたのは成人した(13歳)男性のユダヤ教徒だけであった時代、女性であるマリアにイエスが救いの核心を証言する役割を与えた瞬間です。
 イエスがマリアを通して「わたしは父のもとに昇っていく」と言われたのは、後に「高挙」というキリスト教神学用語になった出来事で、神の独り子が地上で人間として生き、復活されて天に昇り神の右側に座るという権威を表しています。
また「わたしの父はあなたがたの父、わたしの神はあなたがたの神」と言われたのは、復活のイエスが時空を超え聖霊としてインマヌエル(神我らと共に)の主、王となられたことを意味しています。
 言葉を覚え始めた幼子が父親を呼ぶように、この時から信仰によって私たちも「アバ(父の意味)」と呼べる神の子とされたのです。
 イースターは大騒ぎするような祝い事ではありません。救いを真剣に求める人がイエスを個人的に神と呼べるようになった出来事です。信じる世界と縁のなかった人が、信じる人に変えられた記念日です。
 レントもイースターも英語ですが、元々は長い冬が終わり春がやってきたのを喜ぶ北ヨーロッパの祭りから来た言葉です。しかし元々はユダヤの過越祭(ペサハ)です。これは大麦の収穫祭でもあり、パレスチナの春を象徴するアーモンドの淡いピンクの花の頃にありました。満開になったと今朝Nさんから小枝を頂きました。ご覧下さい。
 ユダヤのペサハが復活の言葉になりました。ラテン語でパスカは、突破することです。
 身の回りには、交通事故、殺人、自死、脳出血や心臓発作、感染、さらに災害で死んだり行方不明になるなど予期しない死があります。
 大切な人を失ったなら、誰でも深く悲しみ喪失感で心は沈みます。しかし、この時こそ真の関係がはっきりするのではないでしょうか。見せかけの関係で終わるのか、本当の関係に入るのか。
 涙の夜は必ずまたいつかやってきます。けれども、イエスが御心によって復活させられた(受け身の表現)ように、今後も経験させられるかも知れない涙の夜も、思いがけない喜びの朝に必ず変わるのです。
そういう希望を信じ続けることは一人では出来ません。
 きのうの早朝、一人で聖書を読んでいたら、
小鳥のさえずりが聞こえてきました。耳を澄ませるとウグイスです。やがて2羽いることが分かりました。急いでカメラを出して、望遠で探したところ3羽とわかりました。近くに寄って来てくれて嬉しくなりました。
 イースターの訪れが、1羽、2羽と増えていったウグイスのように、私たちも喜びと驚きと希望をさえずって(ツイート)していきましょう。どこまで続くか分からない不安にひるまず、助け合い、一人でいる人に寄り添い迎え、初代の教会のように希望のメッセージを発信していきましょう。

祈ります。
きょう、イースター礼拝を守ることが出来てありがとうございました。世界中にウィルスが蔓延して死と恐れが身近になっています。その中で健康と命が守られていることを心から感謝します。思いがけず感染して苦しみの中にある人、仕事を失って途方に暮れている人、愛する人を突然失って嘆いている人がおられると思います。どうか人一人一人を慰めて生きる希望を示して下さい。今朝さまざまな理由で一緒に礼拝できなかった方々に、私たちと同じように恵みと個人的な励ましがありますようにお願いします。
 集って礼拝できないようになるかも知れません。そうであっても、私たちがばらばらにならず、インマヌエルの主が共にいて下さり、つながっていけますようにお守り下さい。
主イエスキリストの名によって祈ります。アーメン