2015年4月30日木曜日

2015.4/26 聴く耳のある人、ない人

 (イザヤ書52:7-10  使徒言行録8:5-13)
 ところで、シモンという男がこの町で以前から魔術を行い、サマリアの人々を驚かし、 自分を何か大いなる者のように言いふらしていた。(岩波版:使徒言行録8:9)

 Tさんは「リンゴが赤くなると、医者が青くなる」の喩えをあげ「自分は医者だけれど、僕たちにできることはほんの少しで、病気を治せるのは神様だけなんだよ」と子ども礼拝でよく語っておられました。その方とは伝道や平和の方法で少し意見が違って、たびたび礼拝後も夕方まで喧々がくがく論争したことが懐かしい思い出です。
 エルサレムを追い出されてサマリアにきたフィリポは「神の国とキリストの名」を告げて回りました。体の不自由な人、心を病む人が次々に癒やされる「しるし」は評判となって拡がり、その町に大きな喜びが生まれました。
 かつて主イエスが井戸の傍らで一人の女性と交わした信仰問答がきっかけになり、サマリアで大歓迎された状況(ヨハネ4章)にそっくりです。「しるし」は人々を興奮させます。
 サマリアには魔術で人を驚かし「大いなる者」と自称するシモンという男がいました。町の人はシモンの魔術を「大いなる力」と呼び、魔術の虜になっていました。
 ところが、フィリポが町にやってきて、イエスキリストの名の福音を説き、バプテスマを受ける人が増えてくると、シモンも「信じて?」バプテスマを受け、フィリポの「大いなるしるし、わざ」に驚嘆して付きまとうようになりました。
 「金や銀はない。イエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさい」とペトロに命じられて歩けるようになった男(3章)に似ていますが心根は全く違います。下心があったのです。
 「魔術=マジック」は特殊な技術で、高価な秘密です。19章に祈祷師が聖霊によってひどい目に遭い、悔い改めて高価な魔術本を焼き捨てる記事があります。
 サマリアの人々もシモンもそう簡単には信仰に入れません。「徴を見せて欲しい。そうしたら信じられる」という本音は信者になってからもあります。
 その高慢と誘惑から自由になるには、何度も主の赦しを経験し、真心からイエスに従うしかありません。
 イエスは「主よ、主よと私を呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。私のもとに来て、私の言葉を聴き、それを行う人が皆、どんな人に似ているか教えよう」(ルカ6:46-)と言われます。
 「大いなる者」ではなく「聴く耳のある人」でありたい。

2015年4月18日土曜日

2015.4/19 いのちの種を蒔こう

(イザヤ書60:14-22、使徒言行録8:1-8)
 その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散らされていった。(使徒言行録8:1)
 イエスは「彼を信じる人が一人も滅びないで、永遠の命を得るため(ヨハネ3章)」にこの世にお生まになりました。
 神の意志をあらわすために、この世の知恵や常識では矛盾としか思えない神の命令に徹底的に従われました。民の指導者の理不尽な仕打ちにさえ耐えて。
 そうしたイエスを主と仰いで従った人々が、同じような不名誉や死を甘受したこと、同胞のユダヤ人から弾圧され虐殺されたことが新約聖書に記されています。これは神の失敗、神の誤算なのでしょうか。
 福音とはうれしい知らせ、を意味します。元々は戦争に勝った知らせのことです。敗者となれば名誉を奪われ奴隷とされ国は消滅しました。勝利したその時は福音でも、恐ろしい経験を忘れてしまえば、戦争を繰り返し、死の恐怖におびえなければなりません。
 福音は、教会によってずいぶん違う意味で使われるようになりました。神が死の恐怖から永遠に解放して下さったという喜び、一人を救うために自分を差し出すことができる喜びです。福音を拒む人には、ステファノの生き方や死に方は理解できないでしょう。
 さて、ステファノへの暴力はギリシャ系信者への弾圧にエスカレートしました。本当に理不尽なことです。けれども、この受け入れがたい事実が、神の計り知れない計画と結果を教えてくれます。
 狭いエルサレムで爆発的に教会は大きくなりました。組織も整い信者も増え続け、献金もどんどんささげられるようになったとします。その時、指導者はどんな展望を持つでしょうか。みことばを忘れるなら、そこに立たないなら、権威的でこの世的な教会になっていくに違いありません。
 神さまは、麦に喩えて福音の拡げ方を示されます。食べてしまえばおしまいの穀物の種。農夫は大切な種を畑に蒔きますが、豊作になるかどうかは、あらかじめ分かりません。ただ「蒔かぬ種は生えぬ」です。
 イエスは言われました。「アーメン、アーメン。一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ(ヨハネ12:24)」その言葉へ信頼し従うのが信仰生活です。
 散らされた人々は着の身着のままだったに違いありません。ここで「散る」という単語は「種をまき散らす」というパレスティナでの農作業風景をあらわしています。
 エルサレムを追われた信徒たちが持ち出せたものは「イエスの名、福音の種」だけでした。そして逃亡先はユダヤ・サマリア地方。
 そこはイエスがすでに耕されていた畑(ヨハネ4章)でした。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる(詩126)」が実現し始めています。
 私たちは25年目の歩みへと押し出されました。今、吹いてくる風に載せて「福音の種」を蒔きにでかけましょう。

2015.4/12 主の言葉を思い出しなさい 

(創世記15:1-6、ルカによる福音書24:1-12)
 ああ、ものわかりがわるく、心のにぶい人たちだ。預言者たちが告げたことを、あなたたちは信頼をもって受けとめようとしていない。キリストはこういう苦しみを受けてこそ、栄光に入るはずではなかったのか。(ルカ24:25 本田哲郎訳)

 3月21日「四日市公害と環境未来館」がオープンしましたが、開館までの道のりはとても険しかったそうです。
 1960年頃からの飛躍的な工業化で経済発展した日本各地では、コンビナートの煤煙や自動車の排ガスで空はかすみ、喘息患者が続出しました。私が中学の頃の教科書には、工業化の光と同時に陰の部分も書かれてはいましたが、患者たちの日々の苦しみや救済は後回しにされ、公害防止が制度化され青い空が回復しても「公害の歴史と教訓」を伝える会館の建設は、政治的には邪魔者だったのです。
 命に関わる大事なメッセージなのに、人々の心に届かない。大切な人の遺言なのに遺された人々がその意味をくみ取れない。
 しかし、時が満ちると「いのちの言葉」は必ず人々を動かし始めます。イエスの復活の出来事は、それを証言しています。
 イエスを慕う女性たちが、週の初めの日の出前、準備していた香料を携えてイエスの墓に行きました。すると墓の「大きな丸石」が脇にあり、中に入り確かめると遺体がなくなっていました。せめてイエスをきれいにしてあげたい、思いがかなわず途方に暮れていると(原文には、見よ)二人の天使が現れました。突然、輝く見知らぬ人が目の前にいれば誰だって怖くなります。「なぜ、生きた方を死人の中に捜すのか」
 主イエスは、わずか数ヶ月前「必ずこうなる」と何度も弟子たちに言われました。それは恐ろしい内容でした。私たちは望まない話を何度聞いても、真に受けられないのです。恐ろしい話の結末が喜びでも、前半の内容に耳をふさいでしまい、全体を聞き損ねています。けれども、幸いなことに大好きなイエスさまの声が耳に残っていました。「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」そして何が起こっているのかじゅうぶん分かっていないのに、喜びのあまり飛んで帰って「主はよみがえられた」と報告しました。ところが、男弟子には相手にされなかったのです。これも現実。
 イエスの弟子を片っ端から捕まえて死に追いやっていた青年サウロは復活のイエスに出会って180度変えられました。「最も大切なこととして私があなた方に伝えたのは、私も受けたものです。すなわちキリストが聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んだこと。葬られたこと。また聖書に書いてある通り三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたことです。次いで・・そして最後に・・私にも」と。

2015.4/5 わたしは今日、あなたと共にいる 

(ヨブ記19:21-27、ルカ23:39-43)
 わたしは知っている。わたしをあがなう方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚がそこなわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る。他ならぬこの目で見る。(ヨブ記19章)

 機長は相棒がまさか全員を奈落の底へ突き落とすとは思いもよらず「ちょっとトイレに、いいかな?」と、運命を<死にとりつかれた人>に託してしまいました。
 子どもたちが旅行するとき、無事帰る日まで何度も祈ります。「神さま、わが子の故に同じ飛行機、列車に乗る全ての人をお守り下さい」と、私にはそれしか出来ません。
 格安旅行が危険で、さまざまな対策をした交通機関が絶対安全とは限りません。
 また、この瞬間は健康そうでも次の瞬間に死んでいるかも知れない、生きていること自体、奇跡の連続ではないでしょうか。
 仮に望まない結果であっても「いのちを支配されている方」を信じる人には「生きるにも死ぬにもキリスト」という平安があります。
 主イエスの十字架の両脇に磔された強盗が言いました。一方は「お前はキリストだろう。なら俺らもあんたも救って見ろ」と。もう一人は「何てこと言うんだ。お前は神を恐れないのか」と相棒をたしなめて「イエスよ、あんたが自分の国に行く時には俺のことも思い出してくれよ」と頼みました。少し前まで二人は同じやくざ者でした。
 前者はイエスに期待もせず、罪も知らず「救って見ろ」と凄んだだけ。後者は
①「お前は神を恐れないのか」(神の裁きを認め、死んだらどうなるかまじめに考えた)。
②「俺たちは自業自得なのだから」(罪の自覚と告白)。
③「この人は何も悪いことはしていない。イエスよ・・思い出して」(主がどこから来たかへの期待と信頼)があり、
十字架に釘づけられても(自業自得も、不運も含め)イエスに委ねた、その違いです。
 生きていることは、数限りない選択の連続です。何が正しく何が間違いか、その時には分からないもの。
 しかし、決定的な選択の場面は必ず訪れます。強盗たちも生きるためにさまざまな選択をし、自分の良心を置き去り、なるがままに成り下がって、十字架はりつけられました。しかし、そこに最後の選択が用意されていたのです。
 復活とか永遠の命とは、真実な人格にしっかりとつながる出来事。人間の側からはそれを要求することは出来ません。
 ただ、差し出された招きの手に、自分の手を差し出し、しっかりと受け止めてもらうだけです。
 主イエスは救いを願う人を誰も拒みません。あの強盗にも「わたしは今日、あなたと共にいる」と約束して下さったのです。

2015.3/29 この罪を彼らに負わせないで下さい 

(イザヤ53:6-12、使徒言行録7:44-60)
ダビデは神の好意を得ていました。彼はヤコブの家(イスラエル)のために、まともな幕屋が欲しいと願いました。
そして、ソロモンがダビデの意思をついで立派な建物を建てました。しかし、崇高なお方は、人間の手で造ったものにはお住みになりません。(本田哲郎訳)

 街で学生に「上杉鷹山」「山田方谷」「二宮尊徳」って人、知ってる?と漢字の名を見せても「それ誰?読み方わかんねー」と言われかねない。
 若いアメリカ人宣教師から聞いた話。キリスト教への関心について渋谷でアンケートをしたら「イエスキリストって復活した人でしょ」と何人もが知っていて驚いていた。「じゃ信じる?」と踏み込むと「うち、仏教徒だし」と体よくかわされた。
 ユダヤの若者に「ダビデ、ソロモン、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、イザヤ、エレミヤ」と聞いたらどうだろう。世界のどこに住んでいても、我が子に宗教、歴史、偉人、伝統への誇りを徹底教育している民族だから、答えは明白だ。

 さてステファノは、アブラハムから預言者に至る歩みを「私たちの」と前置きして話してきた。しかし、今自分を訴えている人々の信仰との違いを,はっきりと言わなければならなくなってきた。

 預言者の生きた言葉ではなく、石の律法と石の神殿にしがみついている。だから「かたくなで,心と耳に割礼のない人達、あなた方はいつも聖霊に逆らっています」と信心の方向転換を訴えた。そこはユダヤ人の急所だった。
 アブラハムの神は、信仰によって「祝福の源」にすると約束をされた。アブラハムは勇気ある信仰者であったが不信仰な面もあったし、ダビデもソロモンも同じ轍を踏んだ。
 私たちは神の導きに素直に従うとき祝福される。しかし自分の心のままに行動するとき大失敗をするものだ。その時こそ預言者、聖霊が私たちに迫り、祝福へ連れ戻そうとされる。
 にもかかわらず「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に(2テモテ4:3)」してしまう。
 「父はアブラハムだ」とユダヤ人が主張した時、イエスは「それならアブラハムの業をしなさい(ヨハネ8:39)」と言われた。ステファノは全身全霊で悔い改めを迫って殺された。殺しに賛成した人々の中に律法の学徒がいた。のちのパウロその人だ。
 本物の信仰が命がけの証になることをステファノは示している。教会は「証し」と「殉教」を同じ言葉で表し、イエスの最後の祈り(ルカ23:34)を受け継いできた。
 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マタイ5:44)」「一粒の麦」は地に落ちて死に、多くの日の後に、豊かな実を結ぶことを、先輩たちは証ししてきた。